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domingo, 23 de julho de 2006

ブラジルとレバノン。 その2

ブラジルは、世界各国からの移民とその子孫で出来た国である。

中東からやって来たアラブ系の人たちももちろんその中に含まれている。
19世紀の中期頃から、当時のオスマントルコの領土に含まれていた、今のレバノン・シリアから多くの移民達がやってきている。
20世紀の初めに始まった日本人移民とその子孫よりも歴史が長い。

サンパウロで、1番良い病院といわれるのはユダヤ系のアインシュタイン病院であるが、2番目によい病院といわれているのはシリノ・レバノ病院といわれる彼らが造り上げた病院である。

すでにレバノンやシリアには、もう直接の家族や親戚がいないのかと思っていたが、
今回のイスラエルのレバノンへの攻撃についての報道で全く違っていたことを知った。

このところ、レバノンに家族や親戚のいる人たちがその安否を心配する様子がニュースで伝えられている。

それどころか、すでにレバノンではブラジル国籍保持者が7名もなくなっている。
この人数は、第2次世界大戦以来の人数だそうだ。

どうも、レバノンからの移民は綿々として続いていたようで、特に1970年代からのレバノン内戦を逃れて、相当に新たな移民がブラジルに流入していた。
そうした移民達とその子孫が、内戦が一応終結していたレバノンにまた戻って、復興に参画していたようだ。

ブラジルは、2重国籍を認めているし、おそらくレバノンもそうなのだろう。

ブラジル国籍者の救出ブラジル政府は、レバノンだけではなくヨルダンやシリアにいるブラジル人の救出活動を行っている。

レバノンからバスでトルコにまで脱出したブラジル人を、すでに一回ブラジル軍用機でブラジルに帰還させた。

そして、その作戦を更に繰り返して行うことになっている。
7月20日の段階では3回行うことになっていた。
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7月21日には更に1回追加されて、4回になった。
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1回に乗機出来るのは百名余である。

②行進
7月22日に、サンパウロで、「レバノンの平和を願う行進」があった。
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レバノン共和国大通りを、レバノン・シリア系の人たちを中心に数百名が参加した。
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行進は極めて静かに行われた。
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決してイスラエルを非難するものではなく、
レバノンの平和を願うものであった。
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ブジラルは、こういう国でもあることを知って欲しい。
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③シャビエール選手
今年の初めにコリンチャンスに在籍していたシャビエール選手が、6月にイスラエルのプロチームに移籍した。
Spd20060721d

チームの所在地は、イスラエル北部の港湾都市ハイファ。
今回ヒズボラからのロケット砲による攻撃を受けている都市で、レバノン国境から30キロである。

家族は、まだブラジルにいた。
電話しか連絡手段がなく心配だと言っていた。
Spd20060721b
Spd20060721c

本人は、一応元気だといっていた。
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テレビカメラに向かって、妙に艶めかしい表情をみせる妻である。
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イスラエルにも、何度か行ったことがある。
1991-1992年にかけてだ。
湾岸戦争の後で、一応その時期は中東は静かだった。
ただ、やはりいつ何が始まるかわからないと落ち着かないものを感じていた。
今になって考えてみれば、インティファーダが始める前でもあり、結果として一番平穏な時期だったと思える。

イスラエルに入るには、まず乗機地の空港で面倒なことが待っている。
今はもっと厳しくなっているだろうが、当時でもチェックインの時に荷物について細かく聞かれた。
一旦預けた後に、搭乗待合室に入る前に、またもう一度その荷物があって、
また質問を受けた。
ハイジャックやテロを避けるためとわかっていたので、素直に従うしかない。

イスラエルの空港はベングリオン空港である。
ロッドにあるのでロッド空港ともいうが、日本赤軍の3人がテロ事件を起こして、百名もの死傷者を出した空港である。
日本人として到着時には色々と思いが巡った。

イスラエルについて言うならば、行く機会があって良かったと思っている。

観光的にも、エルサレムや死海等見るべきものがある。
地中海の海の幸も美味であった。

それ以外に見たことや知ったことも、日本では知らなかったことばかりで、考えを新たにすることばかりであった。

決して広いとは言えないイスラエルには、聖書を通じて聞いたことがある地名が沢山ある。
北部のナザレに行った時のことだ、ユダヤ系の人と一緒だったのだが、
旧市街はアラブ系の街だからという。 
イスラエル建国後からやって来たユダヤ人は取り囲むように住んでいるのだ。
エルサレムの旧市街でもそうだ。
ユダヤ人のガイドと一緒だったのだが、狭い旧市街の4つの地区(ユダヤ、アルメニア、キリスト教、そしてアラブ)のうちアラブ地区だけには近づかなかった。

かつてはほとんど砂漠だった国土に植林を進めていることも知った。

独立宣言後の第1次中東戦争時のブリキのおもちゃのような戦車が路肩で朽ち果てているのを見た。
この時は、今と違ってまともな武器がなかった。
欧米が売ってくれなかった。

ローマ帝国の侵攻時にユダヤ人が最後に立てこもったというマサダにも行った。
死海を見下ろす荒涼とした土漠のの中にある丘の砦に立てこもったが、最後には全滅したところだ。
これ以降、ユダヤ人が国を失い世界中に散らばった。
イスラエルの新兵は、必ずここにやってくるそうだ。
「マサダの二の舞は決してしない」
今のような、防衛的な先制攻撃は、マサダを繰り返さないという民族的な誓いから来ている。

だが、考えてみるとイスラエル建国までは、このパレスチナと呼ばれる地域には
アラブ人とユダヤ人がそれこそ2千年近く共存していたのだ。
パレスチナだけではなく、中東のどこにでもユダヤ人がいた。
イスラム教徒は、ユダヤ教を弾圧したりしていなかった。
ユダヤ教徒を弾圧したのはキリスト教徒である。

19世紀になっても、ユダヤ教徒というだけであらぬ嫌疑を掛けられたことがフランスであった。
ドレフュース事件である。
この事件が、約束の地に帰ろうというシオニズム運動のきっかけの一つである。
欧州列国もこれ幸いと、ユダヤ人達の追い出し先を用意しようとした。
この時から、パレスチナでの共存が崩れ始めた。
元々パレスチナはほとんど乾燥地でそれほど多くの人が住むことが出来るだけの土地ではなかった。
今は灌漑で多くの人が住めるようになったが、それも約束の地にやって来たユダヤ人達が懸命に造り上げたものだ。
しかし、その中でアラブ人は土地を追われている。
以前はアラブ人がいたという空き家がいくらでもあった。

今でも、イスラエルではヘブライ語とアラブ語が使われている。
アラブ人が全くいなくなったわけではない。
ちゃんと残っているアラブ人もいるのだ。
だが、2級国民のような扱いだ。

イスラエルのある企業に行った。
有名なダイアモンドセンターがあるラマットガンに本社があった。
役員がいるフロアは多くの場合上階の景色の良いところと世界では決まっているのだが、
この役員フロアは半地下だった。
防空壕のようなものだ。
そこが一番安全だということだろう。

安息日の土曜日の前後に、兵士に休暇がある。
だが、軍服を着て、そして銃器を持って、帰郷する。
いつ何があっても直ちに対応できるようにだということだ。
小さな国土では、兵舎に復帰する間に敵がやってくるからだ。

聖書の時代と、そして余りにも生々しい現代を知ることが出来た。

イスラエルから出国する時の空港での検査も厳しかった。
イスラエルを離れ、数時間で欧州に戻ってきた時は、本当にほっとした。

ナチスよるものだけではなく欧州で何度となく殺戮の対象になったユダヤ人が、どうして今パレスチナ人を強圧的に扱うのか。
考えることはいくつもある。

歴史と現実を学ぶことは必要だ。

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