ブラジル・サンパウロの「死者の日」。
11月2日は、「死者の日」と言って、ブラジルは休日であった。
もちろんもともとはカトリックの行事である。
とはいえ近隣の諸国も全てカトリック国と言ってもいいのだが、
この日が休日になっている国はいくつかしかない。
11月1日を万聖節として休日としている国もある。
この死者の日には、普通は墓参りをすることが多いので、
日本移民や日系人は「ブラジルのお盆」と呼んでいる。
お盆は本来は仏教行事だけどと思っているが、広い心で理解している。
でもブラジル全体が心が広いようで、
カトリック以外の宗教も、この日に墓参りになってしまっている。
墓参りでなくても、何か色々な行事を行っている。
この日の昼や夕刻のニュースでは、
各地の墓地に人々が訪れる様子を流すのが通例である。
そして、これとは別に
サンパウロのローカルニュースで、毎年流される光景がある。
それは、サンパウロ市南部のグァラピランガ湖畔にある、ある宗教施設に多くの信者が集まる光景である。
この宗教は、日系の宗教であり、行事の言葉に日本語が使われていたりするそうである。
仏教のお経でも、元はといえばサンスクリット語で意味は全くわからないのだから、
日本語でもそれと同じに考えればいいのかも知れない。
この祈りの風景を見ただけで、どの宗教かわかる人はほとんどいないと思う。
中にはアンゴラからやってきた一団もいた。
同じポルトガル語だから、ブラジルから布教したのかも知れない。
信者に日本人もしくは日系人が多いわけでもなく、かなり少数だ。
この行事で何か重要な役割を担っている人も、日系人ではない。
この宗教は、「世界救世教」という。
名前は知っているが、それ以上は何も知らない。
岡田某という人が、始めたと説明していた。
この宗教の施設は、サンパウロ市内のあちこちで見ることが出来る。
JOHREI(浄霊?除霊?)というのが、そうだ。
どうして、毎年この死者の日といえば、この宗教のこの行事が報じられるのかわからない。
仏教も、日系人向けに各宗派が進出したはずなのだが、
順調に広がっているのかどうかわからない。
ブラジルで仏教について報じられる時には、
サンパウロ市西郊のコチア市にある台湾系の巨大な寺院がでてくる。
今年も、ニュースに出て来た。
ブラジルで、この世界救世教の他にブラジルに浸透しているのは、
おそらく「成長の家」だ。
この宗教についてもほとんど何も知らない。
毎日地上波で番組を流している。
それに、ここもあちこちに施設があるのを知っている。
日本から数多くの宗教が、
日系移民と一緒にやってきている。
苦労をしている日系移民の心に入り込んでいこうとしたようだ。
だが、もう2世から3世の時代になっている時に、
そのような布教姿勢ではもうやっていけないはずだ。
冷静にみていると、
教勢を伸ばしたところと、そうでないところは明らかだ。
何十年経っても、いまだに信者が、日系人ばかりのところが多い。
教えにしても、今の日本でも通じない様な旧態然としたところもある。
多くの日系の宗教には、類型的な構造があるのだ、それは世襲制と家元制度だ。
宗教的な地位が世襲ではいつまで経ってもブラジル人はリーダーになることはない。
同様に宗教内での地位にあまりに多くの階層があると、ブラジル人は上がっていけない。
「神」の前に、全ての者は平等であるべきだ。
なかには、数少ない信者からどう考えても簒奪しているとしか思えないところもある。
ブラジルから、頻繁に日本の本部に行かなくてはならないような環境にしてしまっているところもある。
ブラジルでの物価や収入からその費用を考えてみると、どう考えても常軌を逸しているとしか思えないのだが、
信者になってしまった人にとっては、そうではないそうだ。
だけど、蓄えをそんなことに使いきってしまう人は、傍目には哀れだ。
そういう宗教はやはりブラジル人には浸透せずに、早晩消滅していくだろうと思う。
実際この宗教の信者は、顔を見ると日系人が9割くらいで、全くブラジル人に浸透は進んでいないようだ。
2世や3世と、みんなブラジル人なのである。
世界宗教の要件が何か考えてみるがいい。
カトリック信者が、バチカンを訪問しなくてはならないということもない。
イスラム教だって、ハジは一生に一回でも十二分なのである。
いい教えなのかも知れないが、
根本的なところで、大きく間違っているところがある。
ブラジルでやっていくために、残すべきところと捨てるべきところがあるはずだ。
ごく普通のブラジル人は、バス代も払えない人が多いのである。
近所の教会で、全てが済むようにしてあげるべきである。
ちなみに、ブラジル人は一般に宗教好きにみえる。
自分ではとても解決できない苦しいことも多いからだろう。
でも、基本概念にカトリックがあるから、そこからの発想が元になりがちのようだ。
絶対神・万能神への祈りを通じての、現世そして来世での救済を求めている。
仏教的な「自分との対話」を通しての心の平穏は馴染みにくいようだ。
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