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sexta-feira, 1 de junho de 2007

ブラジル・サンパウロの東本願寺。

ブラジル・サンパウロの市の歴史的中心部のセントロから南に7キロほど下った、地下鉄プラッサ・ダ・アルヴォリという駅から徒歩で数分のところに、ブラジル・サンパウロの浄土真宗の東本願寺がある。
Spd20070206e

このプラッサ・ダ・アルヴォリ駅周辺は、日系人が比較的多く住んでいる地域で、日本食レストランや食品店も少なくない。

東本願寺の周辺は、駅の商業地区をちょっと離れた住宅街にあるが、
すぐ周辺はちょっと荒廃しつつあるようなところに隣接している。
あまり雰囲気がよいとは思わない。

建物は、
築地本願寺を思わせるようなアジア式意匠のファサード。
Spd20070304k

敷地そのものが小高い丘になっていて、
その敷地いっぱいにもう建物が建っている感じである。
駐車スペースはもうそれほど広くはない。
それでも10数台は停められるようだ。

内部も、立派である。
戒壇も日本から持ってきたのであろうが、豪華である。
Spd20070206f

いつこの建物が建立されたのかは知らないが、
日本人移民がもっとも羽振りのよい時に、資金を投じたのであろう。

その時の人たちの多くはもう仏様になっていておられ、
その子孫たちの代になっているはずである。

今年、この東本願寺を訪れる機会が何度かあった。

冠婚葬祭のうちで、
葬はある意味で失礼をするわけにはいかないものだと思っている。

訪れたのもそういったことがあったからである。

宗教について、とやかく言うつもりは一切ない。

当方の生活に影響を与えない限り、
どなた様が何を信じていようとそれはそれでよいことだと思う。

ただ、この東本願寺に行って、
ちょっと思ったことがある。

日本では、
旧来からの仏教は、葬式仏教などと言って揶揄されることもある。
それは、家の宗教として、葬式と法事の時くらいしか、
寺との関係を持っていないからだ。

今の時代だからといってしまえばそれ迄だが、
そのようになってしまったのは、
江戸時代にいずれかのお寺に属するような仕組みにしたことが、
仏教側にとっても不幸なことだったと思っている。

どんな宗教でも開教の当初は布教という活動が重要な位置を占めるはずであるが、
この檀家制度によって、
布教という活動が重要度を持たなくなってしまったのではないだろうか。

それで、江戸時代の末期の混乱期に、
どんどんと旧来の宗教では救済されない人たちが、
新興の宗教に救いを求めていったわけである。

それは今になるも続いているわけである。
時代の流れがとても速い現代では、
確立した宗教がどうしても持ってしまう保守性や儀式偏重が、
環境の変化に付いていくことを許さないからである。

だから、次々と
新しい宗教が、ときには宗教もどきが生まれてきているのである。
人々の欲望が多様化している現代では、
宗教に求めるものも多様であり、
もはや大宗教は生まれないだろう。

さて、
日本では大宗教である仏教の、それも浄土真宗といえば、
揺るぎないものである。

でも、カトリックが圧倒的であったブラジルでは、
浄土真宗といえども新興宗教の一つのようなものである。

日本人移民については、
その冠婚葬祭の需要もあって、
歓迎されたものであったはずである。

だが、日本人移民を越えた布教という意味ではどうだったのだろう。

東本願寺に行って思ったのは、その点である。

訪れる人のほとんどは、日本人というよりももう日系人が大多数である。
それ以外の白人や混血の人もいないわけではないが、
おそらく日系人の配偶者などで、わずかである。

そうそう非日系人が突然浄土真宗に関心を持つことがないのも理解できないことはない。

だけども、
元々がサンスクリットのお経は、日本人であっても、「意味」をなしていないので、これは儀式として、形式であるのは仕方がない。

でも、儀式の後の法話には、その宗教なりのものがある。
お寺では重要な法話は、お寺に来た方にも意味がある。
いい話を聞かせてもらいたい。

だけども、
多くが日系人で日本語を解さない人ばかりだというのに、法話は日本語。
法話を聴解できる人は参列者の1割にも満たなかったはずだ。
それも、日本語で聞いても下手。
しどろもどろといった感じ。
がっかりした。

何人かの法話を聞いた結果である。
法話の一部を、ポルトガル語にして話したこともあったが、
あまりにポルトガル語が稚拙で、
もう2世以降には何を話しているかさえ理解できなかったようだ。

もちろん、ポルトガル語が流暢な方もおられるのであるが、
いつもその人がでてくるわけではない。

日本語を理解する人が、そのうちいなくなるのは分かっている。
その時にどうするのだろうか。

将来のことを考えると、
もっともっとポルトガル語の強化をして行かなくてはならないのではないか。
2世であっても、仏教が何かを知らない人が多いのだから、
こういった時に初めて仏教にふれる人に対して、
知ってもらう努力をしなくてはならないのではないだろうか。

ポルトガル語による仏教のお話もなければ、
書いたものすらなかった。

これでは、仏教に関心も持てないはずだ。

また、改めて訪れてみようかという気になるような人もいないだろう。
日本人だけの宗教と思うだろう。

何故、こんな事を思ったかというと、
ブラジルには、
日系の新興宗教が移民と共にやってきているのだが、
日本では考えられないくらいその存在が日系社会では大きい。

つまり、布教に力を入れたのだろう。

さらに、
非日系人に浸透し、信者を獲得しているところが、
主だったところでは2つある。

また、サンパウロで最も知られた仏教寺院は、
日系ではなく、台湾系である。
サンパウロ市の西郊のイタペセリカ・ダ・セッハ市に巨大な仏閣がある。

台湾系の移民は、日系のそれに比べると圧倒的に少ないのである。
だが、少なくないブラジルの信者を獲得している。

何も、ブラジルの東本願寺のあり方を非難しているわけでない。
だた、やや傷んできた建物や内装を見るに、
この建立に協力してきた先達の方々が、生前に願ったように、
今後も安寧を保てるのかどうか、ちょっと不安を感じてしまったからである。

日系の新興宗教には、
成功したようなところもあるが、
やはり日本人とその子孫だけが、
信者のほとんどを占めているところがある。
やはり、
葬儀の時などにやってきた非日系人を取り込むような努力が
全く見られないところがあった。

日本人の親が亡くなった後に、
カトリックになってしまう2世や3世が多い。
それは、
日本語の宗教では、何を言っているのか理解できず、
なじめないからだ。

日系の宗教の一層の奮起と、ブラジルでの発展を願っている。

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