ブラジル・サンパウロの「日本移民100周年」 その11 「100年記念碑除幕式」1。
100年前の1908年6月18日が、最初の日本人移民団が、笠戸丸に乗って、サントス港に到着した日で、この日が、サンパウロ州の移民の日となっている。
今年は、この日本人の移民100年を祝っていろいろな行事が、ブラジルの日本人・日系人が多いところで、次から次と行われている。
6月21日(土)には、サンパウロ市のサンボードモで、皇太子殿下ご臨席の下、「100周年記念式典」が開催された。
皇太子殿下は、この前後9日間にわたって、ブラジルの各地を、非常に稠密な日程でくまれた行事に参加されたことは、すでに取り上げたことである。
6月20日(金)の午後には、サンパウロ市東部のカルモ公園での、「100周年記念碑」の除幕式にご出席になった。
実は、この除幕式を見に行った。
除幕式は、13時30分に始まり、15時10分に終わる予定であった。
カルモ公園は、サンパウロ市の中心部から20数キロ離れており、平日では1時間以上かかるようなところにある。
と言っても、沿道の警備が厳しいということもなかった。
ただ、公園に入るときは、園内の駐車場は、一部閉鎖されており、別のところに行くように言われたのだが、結果的にはそこに止めたことが会場には近かった。
この公園の位置関係については、よく知っているので、中に入ることができれば、特に問題はない。
園内では、いつもは警備員程度しかいないのだが、そこは警備員もいつもより遙かに多く、警察もいた。
会場に向かう道である。
この非舗装の道を、皇太子殿下を乗せた車も往復している。
皇太子殿下は、車を降りると、カーペットの上を、約100メートル歩くことになっていて、到着1時間も前なのだが、人がいっぱいだった。
会場には、仮設のテントが4つ設置されていた。
一つは、ステージ。
2つは招待客用。
※クリックすると拡大する。
丘の上は、以前から、子供の遊び場があったところで、その脇に記念碑が設置される。
楽団のテント。
クラシック中心で、
テノール歌手も登場していた。
ご到着前には、ブラジルのポピューラーも演奏していた。
そして、予定より遅れていたが
14時40分過ぎ、
皇太子殿下が到着された。
遠くでもすぐに、どなたが皇太子なのか、見分けがついた。
高齢の招待者も立ち上がって旗を振った。
皇太子殿下の隣の、赤いネクタイをしたのがサンパウロ市長のカサビ。
この公園は市営だ。
そして、柿色の紙袋を持っているのは、西林サンパウロ総領事である。
どうも、各総領事はその紙袋を持って、皇太子殿下のすぐそばにいなくてはならなかったようだ。
何が入っているのか、とても気になった。
何かの「お印」なのだろうか。
ひげの男性が、
「記念碑」制作したKota Kinutaniと言う人。
日芸の卒業である。
まず、日本国歌の「君が代」の短い演奏の後、
ブラジル国歌の長い演奏があった。
サンパウロ市長カサビの挨拶。
皇太子殿下は、いつも挨拶をしている人の方を向いておられた。
皇太子殿下はご挨拶をされることはなかったが、
何人かが挨拶をした後、
除幕となった。
除幕の後、ステージを降りられて、
皇太子殿下は、記念碑をごらんになった。
記念碑はいくつかの碑からなっており、
それらを順に回られたのである。
作家が説明をしていた。
参加者に、お手を振られる皇太子殿下。
作家も手を振っているが、これはちょっと勘違いだと思った。
こういうときに、手を振ってよいのは、皇太子殿下とサンパウロ市長だけだろう。
作家ではあるが、そこはわきまえてほしかった。
みんな皇太子殿下を見に来ているである。
皇太子殿下と市長の間にいるのは通訳。
西林総領事の持つ紙袋はどうしても目立つ。
人に預けるわけにはいかないものが入っているのは明らかだ。
このあと、木を植えられているが、そこは報道陣の場所の真ん前で、視界には入らなかった。
そして、除幕式が終わり、ステージを降り、次の予定のために車に向かわれる皇太子殿下。
あの手の振り方は、なんとも上品で、簡単そうで簡単ではないと思えた。
皇太子殿下がサンパウロで使用されたベンツ。
ブラジリア・ナンバーだった。
すぐに車に乗り込まれることもなく、市長などに挨拶をされ、そしてまた手を振られた。
この車は防弾車なのだが、
日本ではあるカーテンがなく、外から丸見えのままである。
これでは、移動中も気が休まらないことだったと思う。
つづく。
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