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quarta-feira, 21 de outubro de 2009

ブラジル・サンパウロの「日本航空」 その1。

日本航空の行く末が、このところ話題になっている。

いろいろとネット上で見ている限りでの感想なのだが、
日本航空に、暖かい激励の言葉をかけてあげる人が少ないようだ。

これは、どうしたころだろう。
航空会社と言えば、高級ホテルと並んで、心のこもった温かいおもてなしを売り物にしているはずだし、日本航空だって、それを標榜していた。

今や飛行機に乗るのが特別なのことではなくなったこともあるし、おおよそ飛行機で旅をしたことがある人であれば、日本航空に一度ならず搭乗して、その接客の姿勢に感激し、また次も日本航空だと思ったのではないだろうか。

機内に入ったとたん、いらっしゃいませと日本語で挨拶を受け、適度に暖かいおしぼりが配られ、日本語の新聞や雑誌がある。
食事だって、旅先では、久しく食べることがなかった、日本食がある。

客室乗務員に、日本語で、いろいろなことをお願いできる。

そんな日本航空が、いまや墜落寸前だというのに、あまりのクールさに、いささか驚いている。

ネットで書き込みをする人は、ある種の傾向がある人が多いとは思っているのだが、それにしてもである。

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さて、
日本航空が、9月中旬に発表した経営改善案の中に、ブラジル・サンパウロに関係するものがあった。

最初に報じられたのは、「廃止」ということであったが、
後で知ったのは、「2年後に廃止」ということである。

いずれにしても「廃止」なのである。

これが報じられたすぐ翌日には、日本航空のサンパウロ支店長が、早速サンパウロ総領事にご説明のために参上した。

民営化されたといっても、やはりその本質は国営のようなものである。

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ずっと昔に書いたことがある逸話なのだが、
戦後しばらくして、初めて日航機がブラジル・サンパウロに来たときのことらしい。
※正式なサンパウロ便の就航は、米国から以遠権を獲得した1978年のことなので、
 それ以前に何らかの機会に寄稿したことがあったのだろう。

この話は、当時の日本人社会(まだ日系人でなく、移民の方が大勢を占めているような時期である)で大きな話題となった。

戦中に、ブラジル政府から財産を没収されたり、その後の日本人社会で起きた「勝ち組負け組騒動」や未だにタブーのような「旧円新円事件」で、日本人としての誇りを失いかけていた人たちが、日本から飛行機が飛んでくるというニュースを聞いて色めいたのである。

今とは違う時代のこと、移民船で数十日かけてブラジルに来た人たちからすると、また当時の日本の日本人にとっても同様だろうが、飛行機というのは、とてつもなくあこがれのものであったはずである。

サンパウロ市の南部にあるコンゴニアス空港に、いよいよ初就航便が到着するときには、その前日から多くの日本人が空港にやってきたという。
中には、何百キロも離れたところから来た老婆がむしろを敷いて待っていたという。

そして、機体の「日章旗」を見て、
「やはり日本は負けていない」と漏らしたそうだ。

そんな日本人がいるところだから、
日本航空も、2万キロも離れた地球の裏側の路線を維持してきたわけである。

日本航空の路線図を見るとわかるが、
サンパウロ線だけが突出して、長距離なのである。

今でも、ボーイング747で、24-26時間もかかるのである。

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使用する機体もそうだが、路線も、細かく変わっている。

最後のDC-8での便に乗ったのは、1984年12月のことだった。

成田を出て、アンカレージで一旦ストップ。
さらに、マイアミで、テクニカルストップということで、給油のみで、乗客の乗降はなし。
そして、サンパウロから100キロ近く離れたヴィラコポス空港に到着した。

その次の便からは747が使われるようになったのだが、
ブラジルではリオ・デ・ジャネイロに到着し、そこで、提携会社の中型機737などに乗り換えて、新たに開港したガリューリョス空港に到着した。
このころは、国際線はサンパウロよりもリオ・デ・ジャネイロが中心だった。
国際的な観光地だからであろう。

747では、米国内での寄港地はロサンゼルスだけだった。

そのうち何年かして、リオ・デ・ジャネイロではなく、サンパウロのグァリューリョス空港に直接に747で離陸すするようになった。
サンパウロを目的とする乗客が圧倒的に多かったせいだろう。

そのうちに、米国での寄港地が、ロサンゼルスからニューヨークになった。
サンパウロ-ロサンゼルス間の乗客が少なかったからだ。
事実、サンパウロ-ニューヨーク間を利用するブラジル人は少なくない。

1980年代の終わりから、乗客の層が変わった。
所謂「デカセギ」のブームが起きたからだ。
それまでは、
ビジネスマンをのぞくと、
ブラジル到着以来日本に戻ったことがない移民の1世のひとたちが、数十年ぶりに戻るというような人が多かった。
サンパウロ市の東洋人街にいっぱいあった土産物店も「訪日土産」を売りにしていたのだが、デカセギになってからは、そういった土産を買うこともなく、どんどんと土産物屋は閉店していった。

デカセギの人たちには、日本にお土産を持って行くような相手もいなければ、必要もない。

いつもデカセギの人たちで、エコノミークラスは満席であった。
飛行機に乗り慣れていない人たちで、エコノミークラスの環境が非常に悪かったことを覚えている。

2001年9月11日の米国での多発テロ以来、ブラジル人が米国のビザを取得するのがとても面倒になり、米国を経由する日本便は、デカセギの人からやや避けられるようになった。
地球の裏側なので、カナダ経由や欧州経由などの代替路線もあるのである。

また、日本での長期にわたる不況のためにデカセギそのものの動きも減っていった。

ただ、ディスカウントチケットの客であるデカセギがいくら沢山いても、航空会社としては、あまり儲けにはならなかったはずだ。

昨年の米国発の金融危機が起きる前は、
新興国の一つとしてブラジルに再び脚光が当たり始め、20数年ぶりに、日本からのビジネスマンが、サンパウロに続々と到着していた。
このため、ビジネスクラスはいつも満員で、予約はかなり前から入れなければならないような状態であった。
特に、自動車関連の方々が多かったようで、とくにT社やH社と、その関連企業の人たちが多いのはすぐにわかった。
機内でも、ノートパソコンを開いて、景気のよい投資計画をさらに前向きに修正している人もいた。

ところが、
状況は一転し、自動車関連は一気に、投資を凍結せざるを得なくなったわけで、ブラジルも例外ではなくなった。
ビジネスクラスも使えなくなり、ディスカウントチケットを使う企業も当たり前になったわけである。

このところ、多少はブラジル詣をするビジネスマンは復活しているようである。

こういう状況の中で、日本航空も、週3便のサンパウロ線を廃止という方向に決定したのだろうと思う。

路線を運行する以上、サンパウロにはかなりの人員を配置しなくてはならないわけで、その固定費を、廃止によって、一気に減らしてしまおうということなのだろう。

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かつて、
日航機の「日章旗」を見に行った人たちは、
この廃止のニュースを聞いて、どう感じるのだろうか。

すでに、鬼籍に入っておられるのだろうが。

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