segunda-feira, 14 de fevereiro de 2011

ブラジル・サンパウロのコリンチャンスのロナウドの引退会見。

2月14日(月)13時から、
サンパウロ市東部にある
コリンチャンスのパルケ・エコロジコ・トレーニング・センターにおいて、
ロナウドの記者会見が行われた。
約50分間続いた。
記者会見の前に、
ロナウドは、
グランドの選手たちにお別れをした。
http://sportv.globo.com/videos/v/antes-da-coletiva-de-despedida-ronaldo-cumprimenta-os-companheiros-de-corinthians/1435326/#/Futebol/Times/Corinthians/page/1


ロナウドは、
何度も感極まり、
また非常にゆっくりと言葉を選んで話をした。
http://sportv.globo.com/videos/v/ronaldo-anuncia-aposentadoria-e-explica-que-lesoes-encurtaram-carreira/1435460/#/Futebol/Times/Corinthians/page/1

http://sportv.globo.com/videos/v/ronaldo-revela-que-familia-estava-viajando-e-diz-estava-sozinho-quando-decidiu-parar/1435504/#/Futebol/Times/Corinthians/page/1

引退の大きな理由として、
膝のけがに加えて、
あらたに
ミランにいるときにすでに発症していたとのことだが、
甲状腺の異常(hipotireoidismo)をあげた。

これが、
体重の減少を妨げたということである。

治療は、ホルモン療法なのだが、
これを行うと、ドーピングとなるので、
これを行うことができなかったという。

すでに、
コリンチャンスのユニフォームは着用していなかったが、
ユニフォームと同色のナイキのポロシャツを着ていた。

二人の息子も同席した。
最初の結婚で生まれたロナウドと、
昨年末にDNA検査の結果確認された、日系のミシェリ梅津との間に生まれたアレックスである。

選手としては引退したが、
当分、コリンチャンスで、各種プロジェクトに関わる。
http://sportv.globo.com/videos/v/ronaldo-revela-que-continuara-no-corinthians-levando-o-nome-do-clube-pelo-mundo/1435507/#/Futebol/Times/Corinthians/page/1

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domingo, 13 de fevereiro de 2011

ブラジル・サンパウロのコリンチャンスのロナウドが引退。

ロナウドが引退を決めたようだ。

2月13日(日)のある新聞では、友人の談として報じられていたが、
夕刻になって、
各メディアでも、
「ロナウドが引退を決めた」ということを、
同日に行われたサッカーの試合の結果よりも、
大々的に報じている。
http://sportv.globo.com/videos/v/ronaldo-pode-anunciar-aposentadoria-nesta-segunda-feira/1434962/#/Futebol/Times/Corinthians/page/1

ロナウド本人は、まだ、登場していない。

2月14日(月)12時40分から、
サンパウロ市東部の
コリンチャンスのパルケ・エコロジコ・トレーニング・センターにおいて、
記者会見が設定されている。

ここで、正式にロナウド本人が発表するようだ。

12時40分という中途半端に思える時刻は、
Globo局の昼のスポーツ番組”GLOBO Esporte”の放送時刻にあわせたことは明々白々。

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コリンチャンスは、2月12日(土)に
ロベルト・カルロスとの契約を解除したばかり。

続いて、
ロナウドがいなくなるわけである。

経営的には、
超高給の二人がいなくなるわけで、支出は減る。
その分、若くて、まだ安い選手を買うことができるだろうが、
入場料やテレビ放送料さらにスポンサー料が
減ることもまた否めない話だ。

2008年末のロナウドの入団で、
場所によっては5倍以上になった入場料がいささかでも安くなるのだろうか。
ブラジルのクラブの中では、断トツに高い入場料だが、
それでもコリンチャンスのファンはいつも大挙して現れていた。

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ロナウドの選手生活は、けがとの戦いだったわけだが、
コリンチャンスに入ってからもそれは変わらなかった。
2009年にサンパウロ州選手権とブラジル杯に優勝に貢献したが、
その後は目立った活躍はしていない。

2010年そして2011年のリベルタドーレス杯では、全く期待はずれ。

2009年そして2010年は、
「格の違い」を見せていたが、
2010年の末から今年になって、
凄みもなくなっていたのは明らかであった。

つい先頃の記者会見では、本年12月の契約満了まではコリンチャンスでプレイするといっていたが、
その願望はかなわなかったことになる。

熱烈なコリンチャンスのファンであるブラジルの前大統領の
ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァも
数日前に記者会見で
「ロナウドは太りすぎ、止めるべきだ」と、
引導を渡していた。

いくら絞ろうとしても、やせない体質と、止まらない食欲が、結局これにつきるようだ。

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2009年そして2010年に、何試合も、
ロナウドをみることができたのは、
幸運であった。

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domingo, 25 de julho de 2010

サッカー・ブラジル選手権2010 その 第11節コリンチャンス対グァラニー戦。 

サッカー・ブラジル選手権の第11節の、
コリンチャンス対グァラニー戦が、
7月25日(日)の18時30分から、
サンパウロ市のパカエンブー競技場で行われた。

本来ならば、
この試合は、あまり大きな意味を持つ試合ではなかったのだろうが、
ブラジル代表監督への就任を受諾した
コリンチャンスのマノ・メネゼス監督
が指揮する最後の試合となったことで、
全く違った意味で重要な試合となった。

インターネット経由でチケットを購入すれば、
割引になるのであるが、
その販売期限までに、
入場券は購入していなかった。

マノ・メネゼス監督が受諾をした昨日(7月24日)のパカエンブー競技場の
トボガン席に一カ所だけ設定された
前売りの入場券売り場をみていたのだが、
午後には数十人の列ができていた。
拙宅からわずかな距離であるので、何度もみたのだが、いつもそんな程度であった。

試合当日の今日の朝10時に、
パカエンブー競技場の各セクターごとにある売り場が、
試合当日なので開いた。
いつも買い求めるセクターの売り場には全く列はなかった。
つい通りかかったものだから、
買い求めてしまった。

昼過ぎから、
競技場周辺は何となく騒がしくなってきた。

試合開始までずいぶん時間があるのに、
14時過ぎから何度も渋滞し、
クラクションが鳴った。

落ち着かないので、
17時20分に拙宅を出た。
向かいの人と世間話をしたりしたので、
競技場に入り、
いつもの所定の席についたのは、
17時40分くらいになっていた。

この時間では、さすがにまだ人は入っていなかったが、
でも、なんだか盛り上がっていた。

18時15分過ぎに、
電光掲示板での出場選手の紹介の時に、
マノ・メネゼス監督も映し出されたのだが、
ひときわ大きな歓声が上がった。

18時20分に、選手たちに続いて、マノ・メネゼス監督がグラウンドに現れた。
いつもならば、選手たちに目がいくのだが、
やはりコリンチャンス監督として最後の務めをするマノ・メネゼス監督に目がいってしまう。

今までにないマスコミが、マノ・メネゼス監督に集まった。

国歌演奏で、いったんはインタビューが中断したのだが、
演奏中にもかかわらず、また再開していた。

試合開始早々の1分に、
FWジョルジ・エンリッキのゴールで、
コリンチャンスが先制した。

その後も、
試合を支配したのだが、
徐々にいやなムードになってきた。

後半になって、
グァラニーがゴールを脅かすことが増えて、
ついに18分に、同点になった

FWデンチーニョが、退場になり、ますます危険な状況になってきた。

しかし、
33分に、ブルーノ・セーザルが、フリーキックをゴールに直接入れて
再びリード。

さらに、40分に、
またもや、ロベルト・カルロスの左からのクロスを、ブルーノ・セーザルの頭でのゴールで、突き放した。

3対1で、コリンチャンスが勝利し、
再び首位に返り咲き
マノ・メネゼス監督の最終試合に花を添えた。

有料入場者数は、24,501人と、やはり結構入った。

試合後、
マノ・メネゼス監督は、
グラウンドを一周し、ファンの歓声に応えた。

そして、
いつもならば試合後にはすぐにロッカールームに向かう選手たちが、
グラウンドで待ち受けていて、
マノ・メネゼス監督の胴上げをした。

観客も、拍手で、マノ・メネゼス監督を送った。

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マノ・メネゼス監督は、幸せな人だ。

多くの監督は、
よい成績を上げられずに、
ファンから罵声を浴びせかけられて、
任期途中で、辞任するか解任されるのが普通である。

コリンチャンスのファンも、
いつもはそうなのだ。

でも、
セリエBに転落したコリンチャンスを指揮して、
セリエBでの優勝で、セリエBに復帰させ、
翌年の2009年には、
サンパウロ州選手権とブラジル杯で優勝させたことは、
忘れていない。

だから、
それに感謝し、
そして今度はブラジル代表監督として、
2014年にブラジルで開催されるワールドカップで
ブラジル代表を優勝させてくれることを託すために、
この試合にやってきたわけである。

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さらにいっそう激やせしていたメッセージ親父、コリンチャンス大好きおばあさん
第1号と第2号も、観客席にいた。

メッセージ親父は、やせて、すっかり若返っていた。

コリンチャンス大好きおばあさん第1号は、
テレビのインタビューでは泣いていた

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今年もっともよかった試合は、
この試合になりそうである。

やはりこういうことは、
サンパウロ市内では、
パカエンブー競技場でないとおきない。

そばに住んでいてよかった。

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sábado, 24 de julho de 2010

サッカー・ブラジル代表 2014年W杯 その4 【速報】マノ・メネゼスが新ブラジル代表監督就任を受諾。

7月24日(土)11時30分(*ブラジリア時間)から行われた記者会見で、
コリンチャンスの監督マノ・メネゼスが、
サッカー・ブラジル代表監督就任を受諾したことを発表
した。

マノ・メネゼスは、
コリンチャンスがセリエAから降格となった後の、
2007年12月に、
コリンチャンスの監督に就任し、
2年7ヶ月という長期にわたり、
指揮をした。

2008年に、ブラジル選手権セリエBで、
コリンチャンスを優勝させ、
セリエAに復帰させた。

2009年には、
サンパウロ州選手権
ブラジル杯でも優勝させた。

ブラジル杯での優勝で、
2010年のリベルタドーレス杯の出場権を得た。

マノ・メネゼスは
プロ選手としては活躍していない。1962年6月11日生まれ。
1997年から監督家業を始めている。

2005年にも、降格したグレミオを指揮して、
セリエBで優勝させ、
セリエAに復帰させた。
この実績が、コリンチャンスに呼ばれた理由である。

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7月23日(金)午前に、
ブラジル・サッカー協会CBFは、
最初に、
現フルミネンセ監督のムリシー・ラマーリョに就任を依頼したが、
夕方に、断られている。
フルミネンセとの契約が2010年12月まであり、
フルミネンセ側が了承しなかった。

それで、
ブラジル・サッカー協会CBFは、
19時30分から20時にかけて、
マノ・メネゼス監督に連絡をした。

マノ・メネゼス側からは、
24日に記者会見で回答するとしていた。

もともと、
マノ・メネゼスが最有力視されていたし、
本人も、控えめな意欲を見せていた。

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コリンチャンスとの契約では、
ブラジル・サッカー協会CBFに呼ばれた場合には、
契約を解除できるという条項があり、
問題はない。

さらに、
コリンチャンスの社長のアンドレス・サンシェスと、
ブラジル・サッカー協会CBFのリカルド・テイシェイラ会長の関係がよく、
これも問題ない。

2010年のワールドカップのブラジル代表一行の団長を、
アンドレス・サンシェスが務めたくらいである。

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記者会見は、12時10に終了した。

コリンチャンスの選手の
ロナウド、ロベルト・カルロス、デンチーニョそしてエリアス等が、
会場に現れ、祝福した

コリンチャンスの社長ほかの役員も記者会見に応じた。

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記者会見では、
コリンチャンスの次期監督については、
取り上げられなかった。

名前が挙がっているのは、
アヂウソン・バチスタ。

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ブラジルは、
2014年のワールドカップの開催国なので、
出場が決まっているので、
予選はない。

8月に、
米国との親善試合が予定されている。

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terça-feira, 6 de julho de 2010

サッカー・ブラジル代表 2014年W杯 その3 サンパウロ市での開催がいまだに危うい。

2-3週間前のことになるのだが、
2014年のブラジル・ワールドカップの開催予定都市の競技場計画を精査していたFIFAが、
最終的に、サンパウロ市のモルンビー競技場を不的確と判定した。
そして、この事実を、ブラジルサッカー連盟CBFも認めた。

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決勝戦は、
リオ・デ・ジャネイロのマラカナン競技場で行われることで、
何の議論もなく決まっている。

人口第1位の都市であるサンパウロでは、
開幕戦と、3-4位決定戦はやりたいようで、
それにふさわしい規模と設備を持つ競技場としてモルンビー競技場が、
候補会場としてあげられていた。

もちろん、現在のままでは、不十分な設備であることはわかっているので、
その改造プランを、FIFAに示していたが、
一度目は昨年中に却下されていた。
さらに、新たなプランを出していて、
これはFIFAがいったんは認可したようだった。

今回は、その計画に対して、
資金的な保証がないということが、大きな理由になっている。

国なり、州なり、市なりが保証を出せばすむことなのだろうが、
その話が進んでいない、もしくは出てきていないのである。

モルンビー競技場は、
公営ではない。
スポーツクラブの所有である。
そこに、公的資金をつぎ込むのは、問題と言えば問題なのだろうが、
ほかに同規模の代替競技場はないのも事実である。

所有クラブの政治力がないのだろう。

大統領はコリンチャンスのファンだし、前州知事(今年の大統領選の立候補者)はパルメイラスのファンである。
市長は、どこのクラブのファンなのか旗色を明らかにしていない。

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開幕戦などでなければ、
それほど大きな競技場は要求されない。

パカエンブー競技場やパレストラ・イタリア競技場を、改装して使用する案まで出ている。

さらに、今から、新たな競技場を作るという話もわいている。
その用地だって、全く白紙なのであるが。

万が一、パカエンブー競技場で行われるようなことになると、
拙宅は大変なことになる可能性がある。
たいした試合でなければ、観客も多くはないだろうが。

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いくら何でも、
サンパウロで、全く試合が行われないということもないだろうが、
もうあと4年しかないのである。

その1年前には、
コンフェデレーション杯だって、行われるはずである。

どうなるのであろうか。

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宿泊客を見込んで、拙宅を受け入れ可能なように、改造プランもなんて、
何となく考える今日この頃であったのだが、
さて。

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ブラジル・サンパウロはワールドカップ態勢2010 その7 対オランダ戦。

7月2日(金)11時(*ブラジリア時間)から、
サッカー・ワールドカップのブラジル対オランダ戦が行われた。

朝の11時からなので、
午前中のサンパウロ市はとても静かであった。

9時に業務を始めて、10時半頃には一旦やめてしまうわけで、
事実上仕事にならないので、
たいした用がない人は、サンパウロ市内には入ってこないわけである。

車が走っていないわけではないが、
特段急いでいるようでもなかった。

Globo局の地上波の中継は、
9時45分頃に始まった。
相変わらず、ガルヴォン・ブエノ氏は冒頭からハイテンションだ。
だいたい試合の前1時間以上も前から、
しゃべりまくって大丈夫なのかと思うのだが、
話題もちゃんと局が考えている。
ブラジル各所に設けられた大応援会場からの中継などで時間をつぶしていた。

15時からの試合の時は、14時頃には帰宅を急ぐ車が渋滞し、
焦ってクラクションを鳴らしまくったりしていたのだが、
それもない。

花火ですら、散発的であった。

試合が始まるときには、多少多くあがったが。

前半10分に、
FWロビーニョのゴールで、
この試合は意外に楽勝かと思ったのだが。

結果は、ああいうことになった。

13時前に、結論が出たのだ。

ガルヴォン・ブエノ氏の中継は、上手かった。
もう長くやっていて、何度も経験しているからだろうが、
最後の最後まで、使わない言葉があった。
それを使えば簡単なのだが、国民の心に事実を突きつけるようなことはしないのだ。

試合の後、20分もすると、
また車が増えてきた。

試合は試合で、
仕事に向かうのだ。

14時頃に、あるところにいったが、
もう粛々と働いていた。

ただ、そのことについては、話題にしないのが、ルールである。
何もなかったかのように、別のことを話すのが、良識人の振る舞いである。

夕方になっても、何も変わりはしない。
もう、終わったことなのである。

それでも、
17時前におこなわれていた、ウルグアイ戦の中継をみるために、
電気店の店頭などテレビがあるところには、人だかりができていた。

夜のニュースでも、
淡々と事実を伝える。
決して扇情的でもなく感情的でもない。
不測の出来事が起きないためでもあるだろう。

翌日の新聞各紙の表紙は、もちろんその事実に関することがトップではあったが、
その見出しはまちまちだ。

すでに、「監督を物色中」という求人広告のような大見出しをつけたところもあった。
それで、すべてを物語っているのである。

土曜そして日曜と、
街からは、急激に「緑と黄色」が消えつつある。

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どうなのだろう、
元々今回の代表チームは「ドリームチーム」とは言われていなかった。

いつものように優勝候補とは言われていても、
一般のブラジル人は、それはそれとして、
目は肥えているので、
冷静に評価していたはずである。

もちろん期待はしていただろうが、
ものすごく失望したような風には見えないのである。

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もう、次の話題に移っているのである。

つまり、2014年である。

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segunda-feira, 28 de junho de 2010

ブラジル・サンパウロはワールドカップ態勢2010 その6 対チリ戦。

6月28日(月)15時30分(*ブラジリア時間)から、
2010年サッカー・ワールドカップの、
ブラジル体表にとっての第4戦で、
決勝トーナメントでの初戦となる対チリ戦が行われた。

朝から、
何かそわそわして、落ち着かない。

トーナメントに入って、やっとワールドカップ本番といえるわけで、
真剣になる。

午前中に、いろいろなことを済ませておかないと、いけないので、
焦った感じ。

銀行やスーパーなど、人が多いわけでもないのだが、なんか落ち着かない。

12時を過ぎて、
帰宅を始める車が徐々に増えてきた。

Globo局は、14時40分過ぎには中継開始。
ガルヴォン・ブエノ氏が、いつものように快調に喋りまくっている。

15時頃で、
まだ拙宅の近くの、郊外へ向かう道路は渋滞。

そんな中15時19分に、
またもや車がカーブを曲がりきれずに、隣家に突っ込んだ。
明らかにスピードの出し過ぎて、
突っ込む前から、異常なタイヤの音がして、
またやるなと思っていたら、
やっぱり突っ込んだ。
盛大に、ほこりが上がった。


何人か乗っていたようで、
助手席の男は頭を打ったようだ。

だいたい時速30キロが、制限速度である。
60キロでも出し過ぎである。

結局、
試合に間に合わないどころか、
完全に見ることができなくなったわけだ。

気になるので、
試合開始後に見に行った。
運転していたのは、若い女性だった。
真新しそうなプジョーの307の全部が塀に突っ込んで大破していた。
エンジン・オイルが流れている。
エアバッグは機能したようだ。

15時40分過ぎに、
パトカーが2台やってきた。

1台のパトカーには、
どこかのテレビ局(たぶんバンデイランチ局)のクルーも同乗していた。

前半34分 DFフアンが、コーナーキックを、頭でゴール。

花火が上がりまくっている。
神経質な試合の均衡が崩れた。

前半37分、 FWルイス・ファビアーノのゴール。
オフサイドかと思っていたが、違っていた。
左から、ロビーニョがよく走った。

16時16分 前半終了。
        2対0で、ブラジルがリード。

レッカー車が来て、
事故車を引っ張っていた。
道路が空いているので、
早くやってきた。

後半14分に、ロビーニョのゴール。

結局、延長2分の末、17時22分に、
ブラジルが3対0で勝利した。

試合後、3-4分は花火が上がったが、
それもすぐに終わった。

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ブラジル・サンパウロはワールドカップ態勢2010 その5 対ポルトガル戦。

6月25日(金)11時(*ブラジリア時間)から、
2010年サッカー・ワールドカップの、
ブラジル体表にとっての第3戦で、
グループリーグでの最終戦となる対ポルトガル戦が行われた。

11時に試合開始と言うことで、
学校は7時30分に始まるのはいつも通りだが、
10時前には授業を終えて、帰宅。

公共機関は9時から10時頃まで窓口が開いているのはいい方で、
14時から業務開始というところも多かった。

朝は車が少なかった。

試合は、
地味に、
0対0の引き分け。
怪我をしないようにやったのだろう。

だいたい、ブラジルは旧宗主国のポルトガルには友好的である。

試合が終わって、20分もすると、車が増えてきた。

また業務開始である。

勝ったわけでもないので、
花火もあまり上がらず、
まあ落ち着いたものである。

ともかくも、
グループリーグを1位で通過したので、
強敵がいないトーナメントに入ることができた。

あいかわらず、ガルヴォン・ブエノ氏はうるさい。
10時前から、Globo局で喋りまくっていた。

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segunda-feira, 21 de junho de 2010

ブラジル・サンパウロはワールドカップ態勢2010 その4 対象牙海岸戦。

6月20日(日)15時30分(*ブラジリア時間)から、
2010年サッカー・ワールドカップの、
ブラジル代表にとっての第2戦の
対象牙海岸戦が行われた。

最近は、「象牙海岸」と呼ばずに、「コートジボアール」とフランス語で表記するのが普通になったこの国だが、
ポルトガル語では、「コスタ・ヂ・マルフィン」という。
意味は「象牙海岸」である。

元々、日曜日の午前中は、あまり人も出てこないサンパウロ市のパウリスタ大通りではあるが、
いつもの日曜日よりは若干人のでが早かったように思えた。

やはり、「緑と黄色」を着た人が目立った。

この日も、開いている店舗でも14時には閉まるので、
用事がある人は早く出てきたのかもしれなかった。

先週までは、寒かったのだが、
週末からは、やや気温が上がってきた。
13時頃には、久しぶりに暑く感じるくらいになった。
なので、この時刻に出てきたような近所の人は、夏のような格好であった。

休日なので、
車も極端に少なく、
帰宅を急ぐようなラッシュもなく、
クラクションが鳴り響くこともなく、
ごく普通の日曜日の午後のようだった。

Globo局は、
14時から地上波で、中継を始めた。
試合開始1時間半も前である、
早速、ガルヴォン・ブエノ氏が登場し、「喋りまくっていた」。
この人、連日の試合中継もナレーターをしているのだが、
「うるさい」。
この日も、結局17時56分まで喋り続けていた。

試合開始前には、
”ブブゼラ”のようなものをならす人もいたし、
花火も上がったが、
初戦ほどではなかったようだ。

ゴールの時には、
ちょっと遅れて、花火が上がり、
前半終了でまた花火が上がり、
追加点でも花火が上がる。

そして、試合終了で、
また花火があちこちで上がる。

日曜日なので、
試合後も、
それほど交通量は増えなかった。

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試合後でも、
選手たちとが、マスコミと接触することは多くない。

ドゥンガ代表監督と、
マスコミ(Globo局も含む)との折り合いが悪く、
記者会見中に、
ドゥンガ代表監督がむくれるし、
不適切な発言(*ピー音で消されていたが)があった部分などが流される。

Globo局は、
正確な報道をしたいので、
もっと情報をほしいのだと言っていたが。

とにかく、
ブラジルのマスコミにも、
距離を置いているブラジル代表である。

練習でも、シャットアウト。
合宿所も、シャットアウト。

2006年の代表とは、全く大違いである。

おもしろネタなど全くない。

おもしろい選手もいないが。

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sábado, 19 de junho de 2010

ブラジル・サンパウロはワールドカップ態勢2010 その3 初戦 対北朝鮮戦。

6月15日(火)15時30分(*ブラジリア時間)から、
2010年サッカー・ワールドカップにおける
ブラジル代表の初戦が行われた。

対戦相手は、あの「北朝鮮」であった。

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その朝から、
やはり、サンパウロ市の様子は何か違っていた。

「午後に大事なことがある」という雰囲気である。
それにあわせて、すべてを行っているという雰囲気である。
すべての人が、そうなのだから、街中がいつもとはどことなく違った雰囲気なのである。

「緑と黄色」を着込んだ人が多かった。
「緑と黄色」の小旗をつけて走る車も増えていた。

午後からは仕事にならないので、サンパウロ市内に入ってくる車も少なかったのか、午前中は車がいつもよりはスムーズに動いていた。

14時に業務を終えることになっていたので銀行は、人が午前中に集中したようだ。

正午前から、
そろそろ帰宅し始める人が、現れていた。

昼食をとる人も、いつもよりは少なかった。

13時になると、
帰宅する車で道路が渋滞してきた。
15時30分までに、絶対に家に着かなくてはならないという目標があるわけで、
いつのも夕方のラッシュとはそこが違う。

かなり焦っているような感じで、
クラクションが鳴っていた。
それに、
ブブゼラではないが鳴り物をならしながら走る人も多く、
騒然としていた。

14時に州の公的な機関で用事があったのだが、
早めに13時前にはついていたのだが、
果たして予定通りなのかどうか、
警備員でもわからないという状態。

図書館で時間をつぶして、
13時45分頃にいったのだが、
どうも機能しそうであった。

所用を、14時40分頃までに済ませて、
拙宅に向かった。
近いところだったし、ラッシュの流れとは全く反対方向なので、
あまり渋滞はしなかった。

ほぼパカエンブー大通りを走ったのだが、
対向車線はまだだ渋滞であった。

ロナウドの自宅アパートのすぐ近くにある
彼の行きつけの美容サロン前あたりから、
パカエンブー競技場のまえのシャルレス・ミラー広場に至るまでである。
http://www.youtube.com/watch?v=OXUi10tKy1Y

さらに、自宅に戻る前に、
シャルレス・ミラー広場を軽く回ってみた。

サッカー博物館はすでに閉館していた。
競技場の一角にあるカフェバーは、
巨大な画面を設置して、
いつもよりスペースを広げて、
自宅に戻らずに観戦する人たちを期待していたようだが、
あまり客はいないようだった。
http://www.youtube.com/watch?v=SdvU9RjdBec

15時少し前に、拙宅に戻ったのだが、
Globo局の地上波では、
すでに、
ナレーターのガルヴォン・ブエノ氏が喋りまくっていた。

試合開始前に、
あちこちで花火が上がった。

まだ、渋滞は完全に解消していなかった。

後半になって、
ブラジルのゴールで、
また花火が少し上がった。

2点目でも、少しあがった。

試合終了時にも、
花火が上がった。
でも、たいしたことはなかった。

終了直前に、ゴールを入れられたせいなのか、
大勝でもなかったからかもしれない。

試合後、30分もすると、
また車が増えてきた。
試合中でも、車の通りが全くなくなったわけでもない。

昔に比べると、
試合中でも、静かではなくなったように思う。

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いつものことながら、
ブラジル代表は、
1次リーグ戦の初戦では、余りよい試合をしない。
徐々に調子を上げて、チームを作っていくという感じである。

第2戦そして第3戦を、見ていかなければならないだろう。

それにしても、
ドゥンガ代表監督の管理が厳しいので、
代表選手たちの「余計な情報」が全く出てこない。

それが、
2006年の代表とは大きな違いである。

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